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【れんが探訪】~仙台藩・伊達家ゆかりの仙台味噌醸造所編~

2025.12.17
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【れんが探訪】~仙台藩・伊達家ゆかりの仙台味噌醸造所編~

品川リフラの前身企業として、1903年の設立から、JFE炉材㈱と合併する2009年まで営業していた品川白煉瓦株式会社。耐火れんがの製造を主業とし、一時期は建築に用いる化粧れんがの製造なども行っていました。鉄分を多く含み赤色を帯びる赤れんがに対して、耐火性を高めるため熱に弱い鉄分を除き、アルミナやシリカを多く含む原料で作られたれんがは白色に仕上がります。そのため明治時代から昭和にかけては「耐火れんが=白れんが」という呼び名が使われていましたが、焼成技術の向上と、耐火れんがの使用用途の変化に伴ってだんだんと黒色や灰色の耐火れんがが主流となり、次第に「白れんが」という呼称は姿を消していきました。

品川白煉瓦設立当時のれんが製造は、原料の粘土に水を加えて柔らかくし、型にはめて形をつくったのちに焼き固めるという、昔ながらの湿式成形法で行われていました。現在のようにプレス機を用いた乾式成形で固めるれんがと違い、乾燥・焼成前のれんがは柔らかかったため、容易に表面を変形させることが出来ました。そのため、当時の製品の一部には、現在の品川リフラで主流となっている完成後の製品に社名ロゴのスタンプを押すのではなく、品川白煉瓦製品であることを示す「S.S」ロゴと「SHINAGAWA」の刻印が表面に刻まれています。この「SHINAGAWA」の刻印が入った耐火れんがは全国各地で発見され、当時の産業の歴史を物語る貴重な存在として、出土品の展示や建築物への再利用が行われています。

今回は、かつての江戸の町に仙台味噌の味を伝えたとされる、仙台藩の味噌屋敷跡から出土した白れんがをご紹介します。

味噌工場の遺構から現れた品川白煉瓦製のれんが

JR大井町駅と京急青物横丁駅のほぼ中間に位置する東京都品川区東大井4丁目周辺は、江戸時代に奥州仙台藩主・伊達家の下屋敷が置かれ、約3,000名もの家臣が在勤していた場所です。地方大名たちは参勤交代制度により江戸への常駐を命じられており、藩主が公務を行う上屋敷、藩主の家族が住むための中屋敷、余暇を過ごしたり倉庫としての役割も担う郊外の下屋敷という複数の屋敷を江戸に構えていました。

当時の日本人にとって欠かせない食料といえば味噌でしたが、江戸式の味噌は甘口で塩気が少なく、辛口の赤味噌に慣れている仙台藩士の口には合わなかったため、仙台藩は広大な下屋敷の中に味噌蔵を建て、味噌の自給自足を始めました。やがて江戸末期頃には味噌の余剰分を一般に向けても販売するようになり、仙台味噌の味が江戸の町に広まるとともに、この下屋敷は人々から「仙台味噌屋敷」と呼ばれるようになります。

明治時代に入ると味噌造りは近代化し、ボイラーや煙突、窯などを備えたれんが造りの味噌醸造工場が稼働していました。明治維新後に仙台藩の伊達家が経営していた味噌醸造会社は、仙台で味噌醤油の醸造をしていた八木久兵衛が工場を引継ぎ、1902年に合名会社として改組ののち今に至るまで、「仙台味噌醸造所」の名で下屋敷跡に店舗を構えています。

仙台坂遺跡の発掘現場<東大井四丁目、1987年撮影> しながわWEB写真館(品川区)提供

このような仙台味噌の歴史と品川白煉瓦の関わりが明らかになったのは、1986年から3回にわたって行われた仙台坂遺跡発掘調査でのこと。伊達家の遺物とともに味噌工場の遺構が出土し、大豆を煮るための竈に使われていた品川白煉瓦製の耐火れんがも発掘されました。この際に立正大学考古学研究室の教員と学生たちが調査団として活躍した経緯もあり、この耐火れんがは現在、立正大学品川キャンパス西門の壁面に組み込まれ、展示されています。また、JR大井町駅西口前の煉瓦柱の一部としても使用されており、こちらは文化遺産として気軽に見学することができます。

立正大学品川キャンパス西門の品川白煉瓦製れんが
JR大井町駅西口前の煉瓦柱

撮影協力:立正大学 ※現在、品川キャンパス西門は施錠され一般の出入りができなくなっています。
参考文献:第五つうしん第119号(在原第五地域センター)